仕事が終わる頃には日が落ちて、辺りはすっかり、暗くなっていました。
山奥の小さな町。
川沿いの細い道。
山の斜面に、家の明かりが、ぽつりぽつり。
僕は仕事道具をトランクにしまうと、夜の闇の中へ、車を発進させました。
夜の山道は、それはそれは心細いものです。
黒い木々に囲まれた道を切り裂いてゆくヘッドライト。
時折、遠くに見え隠れする小さな灯りが、闇をいっそう深いものに感じさせます。
家まで約4時間。
朝6時起きで一日移動と取材に追われ、疲れもピーク。
しばらく運転していると、眠気が襲ってきました。
見ると、ライトに照らされて運動公園の看板があります。
川沿いの道から折れて100mほど坂を上ると、広い駐車場に出ました。
(よし、ここで少し休んでいこう・・・)
時計を見れば、午後10時。
僕は車を駐めてエンジンを切ると、座席を倒しました。
静寂と闇が辺りを包みます。
窓を開けて目を閉じると、昼間の疲れが夜気に溶けてゆきます。
ウトウトとしていながら、頭の中では、今日一日の出来事が鮮明に蘇っている。
まるで白昼夢でも見ているかのような、不思議な感じです。
その心地よさに身を任せてまどろんでいると、ふいに、笛の音が聞こてきました。
ひょお~るるぅー、
ひょおーるるぅ~・・・
縦笛やフルートではなく、雅楽の龍笛。
牛若丸が五条の橋で吹いていた笛。
神社で神主さんが吹いている、あの日本古来の笛の音が、どこからともなく聞こえてきます。
(いったい何処から聞こえてくるんだろう。誰か練習でもしているんだろうか・・・)
遠くから風に流れてくるようでいて、耳を澄ませば、すぐ近くから聞こえてくるようでもあります。
僕は座席を起こすと、ドアを開け、車の外に出ました。
夜の駐車場には僕の車が一台きり。
他には誰もいません。
闇に慣れた眼で見回すと、駐車場の周りにあるのは、トイレと、グラウンドと、かたわらに小さな墓地。
僕は笛の音の主を捜し、ぽつぽつと歩き出しました。
トイレ・・・違います。
グラウンド・・・誰もいません。
墓地にも人影はなく、第一、笛はもっと別の所から聞こえてきます。
駐車場は丘の上にあって、片側は下の道へと続く藪の生い茂った斜面。
もう片側にグラウンド。
それ以外は鬱蒼とした森に囲まれています。
近くには人家もありません。
僕は諦めて車に戻ると、ドアにもたれて、聞こえてくる笛の音に耳を傾けました。
何だかとても懐かしいような。
それでいて、とても悲しいような。
気が付けば、夜空には白く冴えた月が輝いています。
見下ろせば、河が月明かりを蒼く映しながら横たわっています。
そしてその向こうには、黒々とした山並みが、遠くどこまでも、どこまでも続いています。
その景色を眺めながら、僕はふと、こんなコトを考えていました。
(遠い昔、この辺りにまだ道も家もなかった頃・・・
誰かがここで、こうして笛を吹いていたのかもしれないなぁ)
笛の音はなおも冴え渡り、いつまでも、いつまでも、夜の闇間を流れて行きます。
ひょお~るるぅー、
ひょおーるるぅ~。
今から10年ほど前、宮崎の、とある山の中での出来事です。

皆さんは、夜の山を訪れた事があるだろうか?
人のいない、灯りもない、夜の山。
僕は昔、よく行っていた。
もちろん誰もいない。
何も聞こえない。
車のライトを消せば、辺りは途端に、漆黒の闇に包まれる。
しかしそれもほんの一時の事で、眼が慣れてくると、色んなものが見えてくる。
夜気を呼吸し、静かに佇む木々。
星の光を浴びて、透明に輝く草花。
楽しげに遊ぶ、ウサギやタヌキ。
音も聞こえてくる。
サワサワと、風が梢を撫でる音。
近くを流れる、沢の音。
遠く山々にこだまする鹿の鳴き声。
暗くて怖い、と思っているのは、おそらくは僕たちだけだ。
そこでは様々なモノたちが、夜、と言う時間を楽しんでいる。
その日も、車に乗って夜の山に出掛けた。
原稿の締め切りに追われ、煮詰まった頭を冷やす為だ。
5分ほど車を走らせ、近くの山へやって来た。
中腹に小さな広場があり、その先に、ささやかな駐車スペースがある。
車を駐めて、エンジンを切った。
座席を倒し、目を閉じて耳を澄ませる。
しばらくして目を開くと、辺りは驚くほど明るかった。
月夜だ。
空に、丸くて黄色い月が、ぽっかりと浮かんでいる。
車を降りてみる。
一瞬、ドアを開けた時の車内灯の光で、辺りに闇が訪れるが、
ドアを閉じるとまた、じんわりと月の光が降りてくる。
月夜の山は意外なほど明るく、そして美しい。
夜だというのに、遠くの木々の梢まで、手に取るようにハッキリと見える。
まるで、幻の中に佇んでいるかのようだ。
それを見ていると、さっきまでの頭の中のモヤモヤが、嘘みたいに消えてゆく。
心が透明に、静かになっていく。
僕は車にもたれて、夜の景色と、その中にいる自分を楽しんだ。
しばらくして、ふいに何かが聞こえた。
声・・・人の声だ。
気のせいかと思ったが、遠く微かに、確かに聞こえてくる。
子供が楽しげにはしゃいでいる。
それに答えるかのような、男性と女性の声も聞こえてくる。
ははぁ。
さては、僕と同じように夜の山を楽しみに来た家族がいるのだな。
そう思った。
辺りには人家はない。
麓からはかなりの距離がある。
とすれば、この先の峠の方で車を駐めたのか。
声が少しずつ近付いて、はっきりとしてくる。
子供の笑い声が聞こえる。
何を喋っているのかは分からないが、とても楽しそうだ。
しかし・・・と僕は思った。
腕時計を見ると、夜中の2時を廻ったところ。
こんな時間に、山の中を散歩する家族がいるのか?
声はなおも近付いてくる。
僕は車を離れて道に出ると、峠へと続く上り坂を眺めた。
もう本当に近い。すぐそこだ。
しかし、道の先のカーブからは、家族は姿を現さない。
あの家族はいったい、何処からどうやって来ているんだ?
その時、声が止んだ。
だがいる。すぐ近くにいる。
僕は辺りを見回して気配を追った。
そして、気付いた。
道を挟んだ山の斜面。鬱蒼とした藪の中。
その木々の向こうからこちらを見ている視線を、確かに感じた。
・・・ああ、そうか・・・。
僕は妙に納得して、車に乗り込むと、月明かりに包まれた夜の山をゆっくりと後にした。
そうなのだ。
ソレが何なのかは分からない。
人ならぬモノか、あるいはタヌキの親子連れか。
いずれにしても、月夜に家族で気持ち良く散歩をしていたら、目の前に男が立っていた。
こんな時間に!?
たった一人で!?
僕も驚いたが、向こうもさぞかしビックリしたことだろう。
散歩のジャマをして、ゴメンね。